色々語る

雑食雑多に色々と書いていきたい。

【雑感】ババアの介護という罪について

介護、介護。老人の介護。

俺はまだその本当の苦しみを知らない。

下記、チラシの裏側.comにて私の発言。

 

鹿児島というクソ田舎に帰ってきて、まず親に言われたことは、『ばあちゃんちに住まないか?』だった。
会社が近いだのなんだの理由をつけていたが、本音はただの介護要員としてのことだろう。
俺のばあちゃんは、もう88歳で7割がたボケが入っている。
実際のところ、両親ともにボケ老人に振り回されて疲労困憊している様子は常々伺っていた。
2,3週間ほど前、まだ東京の設計事務所で働いていたころ、明け方にばあちゃんから電話があった。
出るべきか、出ざるべきか。
俺はほぼノータイムで結論を出し、スマホをサイレントモードに変更して寝直した。
最近、俺は家族・親戚・血の繋がりそういった類の生まれた時からぶら下がっているものが憎くてしょうがない。

ボケたばあちゃんが母親を罵倒したり、母親と母方のばあちゃんからボケ老人の悪口を聞かされたり、ましてや面倒ごとをしれっとした顔で俺に押し付ける。
お互いに嫌い合い憎しみ合いながら、表面上の関係を取り繕っている。
何のための努力なのか分からない。
助けられる範囲で助け合うのは許容できるが、俺だけを泥舟に乗せようとしてくるのには腹が立つ。
なぜ施設に入れないのかと問えば薄情だとかなんだとか、情のなんたるかを理解出来ないらしい。
理というものの価値がないこの家の中では、俺のこれまでの人生は無に等しい。
よくしなる枝もいつか弾けるように、俺もいつか人格というものが破綻しそうである。

 

以上、転載終了。

本日ばあちゃん、両親、兄貴と5人で福岡へ旅行へ出た。

朝ばあちゃんの家に行くと行きたくないと駄々をこねた。

母親はそれをおおよそ無理やりにして連れ出した。

福岡に着いてからの母親を見るに純粋に自分が楽しみたかったのだろう。

まぁ、日頃から介護というストレスをもろに受けているのはきっと母親であるからにして、僕ら男衆は何も言わず母親の好きにさせていた。そんなこんなで、出発当初、駄々をこねられた割にうまく運んでいた旅行であったが、残念なことに、おばあちゃんを寝かしつけてから向かったカウントダウンイベントの後で一悶着あった。

イベントを終え24:30ごろ帰り着くと、一人でいることが不安だったのだのだろう、ホテルマンを呼び出したおばあちゃんが訳のわからないことを言って、ホテルマンが部屋の前で困惑していた。

ほんまにボケは罪である。誰もが何かを傷つける。

ボケている人間はまだいい。なんてったって無意識だから。

ある意味で一番罪深いが、故に罪の意識が希薄で済む。

しかし、僕らはどうだろう。

痴呆の人間を説教したり、怒鳴ったり、そんなことしたところで何が改善されるのだろう。

ストレスの吐口として罵ったりコソッと謗ったり人とは斯くに醜きや。

感情と責任感と理の狭間で人は己を見失う。

 

井上陽水『人生が二度あれば』の歌詞の通り、今の家族を見ているとなんのために生きているのかわからない。

俺はこの地で俺自身の価値を見出せるのだろうか?

この気持ち悪い社会の中で、精神を保てるのだろうか?

俺は俺の価値がこんなものではないことを知っている。

全ては分からないことだ。

少なくとも俺は俺のメンタルを最優先としようと思う。

それは、それが俺と俺の周りを幸せにできる唯一の術だと知っているからである。